映画『ラダック 氷河の羊飼い』を観た方の感想

上映+監督による解説イベントにご参加いただいた柴山利幸さんから、
ご感想をお寄せいただきましたので、その一部をご紹介します。

 

「羊たちとの暮らしを失いたくはない」
ドキュメンタリー映画『氷河の羊飼い』とスタンジン・ドルジェ監督の解説

ドキュメンタリー映画『氷河の羊飼い』は監督の姉を主人公に、羊飼いの過酷な仕事と、動物との暮らしの愛着を描いたものでした。ラダックでも時代の変化により、古き伝統的な動物と共生する文化が失われつつあるそうです。寒く急峻な地域条件で、オオカミから羊を守り、時には無事に出産をさせるために、眠る時間さえ取れないほどの過酷な仕事。それでも動物と共生する文化を守る使命感がスタンジン監督の姉からは滲み出ています。

スタンジン監督は、姉を頼りになる家族であり、先生でもあると言っていました。眠る暇もないほどの忙しさの中で、のどが渇いた弟のために、いやな顔一つせずにお茶を入れてくれる姉に、感謝と尊敬の念を持っていることを語ってくれました。

ラダックを旅する時に感じるのは、男性のたくましさと、女性の広大な母性です。日本で感じるものとはスケールが違う、際限のないその性質は、人間本来の輝きを見るように感じられます。姉の広大な母性と触れて、言葉にならない感謝と尊敬の思いが、彼女を語る監督の言葉の端々に現れているのをみて、たまらなく懐かしいものを感じていました。

映画の後にスタンジン監督が話した言葉で印象に残ったことがいくつかあります。

一つは孤独についてです。きらびやかなパリのアパートにいるとき、世界にたった一人だけ取り残されているような孤独を感じていたそうです。映画を撮るために、ラダックで姉と一緒にいるときには、他に大勢の人が居るわけでもないのに、全く孤独を感じることがなかったそうです。私の想像でしかないのですが、その気持ちはわかるような気がします。孤独は人の中で感じる孤独の方が強い、ということもありますが、それとは別にきっと大地と共生して、体に染みついている先天的な郷愁のようなものがあるように思えます。人は自然との繋がりを絶たれたところで、何かを置き忘れたような孤独感を生み出してしまうように思えます。13歳まで羊飼いを手伝っていたスタンジン監督自身、自分のルーツと大地との繋がりを、言語化していなくても強く感じ続けていることが、一つ一つの言葉の説得力になって、人格に反映されているのだと思います。

二つ目は自分の役割に対する責任感です。「姉が過酷な労働をしているのに、なぜ、あなたは映画を撮っているのか?」という質問に答えているときのことです。スタンジン監督は、笑って質問を受け止め「映画を撮ることで私は羊飼いと同じことをしている」と答えました。監督自身、羊飼いがいる暮らしをいつまでも続けなくてはならないという熱望を持っていることを垣間見ることができました。姉にとって、過酷な労働より文化が失われることの方が、身を切られるように傷むことを知り尽くしているのです。

ラダックのためでも、伝統のためでもなく、動物と共生する文化を失ってはいけない、という理屈ではない強い思いがこの姉弟にはあります。それはやはり生命として体に染みついた生きるための条件なのかもしれません。その共有する思いに触れたときに、私たち自身が失ってしまったものに気づかされたような気がしました。

また、生徒たちが自主運営する学校SECMOLの出身で、幼いころから映画の才能を買われたことも印象に残りました。監督の人生は自分が思い描いたようにではなく、良い意味でも悪い意味でも自分にしかできない役割があり、その流れに身をゆだねながら、大地との繋がりを持った虚飾のない言葉を誠実に綴りつづけるのでしょう。そのような本質的な自分の立場と巡り合うことは幸福なことだとあらためて感じ、またうらやましくも思えました。